脚本・演出:ケラリーノ・サンドロヴィッチ
出演:大倉孝二 咲妃みゆ 山西 惇 音尾琢真 矢崎 広 須賀健太 清水葉月 土屋佑壱 武谷公雄 浅野千鶴 王下貴司 遠山悠介 安井順平 菅原永二 犬山イヌコ 緒川たまき 高橋惠子
演奏:鈴木光介 向島ゆり子 伏見蛍/細井徳太郎 関根真理 関島岳郎
KAAT神奈川芸術劇場にて
2025/09/14(日)~2025/10/04(土)まで上演
その後、全国ツアー予定
≪富山≫オーバード・ホール
≪福岡≫J:COM北九州芸術劇場
≪大阪≫SkyシアターMBS
- 【あらすじ】
- 【感想の前に。客席設定がすごい】
- 【全体感想】
- 【重なり合う世界の層】
- 【ポップでライトな死生観】
- 【素晴らしい舞台美術、贅沢な生演奏】
- 【ヘンリー・クリンクル(ドン・キホーテ)】
- 【ローズ(ドルシネア姫)】
- 【劇団主宰アルビー(サンチョ・パンサ)】
- 【牧師(サンチョ・パンサ)】
- 【その他】
【あらすじ】
ある都会の一角。俳優と思わしき2人の男(安井順平・菅原永二)がドン・キホーテ役の代役を探している。
幕が開いて3週間。ドン・キホーテ役の俳優ヘンリー・クリンクル(大倉孝二)が自分をドン・キホーテだと思い込み、本番中に袖に引っ込んだまま姿を消してしまったのだ。楽屋の鏡前には置手紙。そこに書かれていたのは、「諸悪と闘うために遍歴の旅に出る」との言葉だった。
その頃、自身をドン・キホーテと思い込んだクリンクルは馬に乗り、牧師(山西惇)をサンチョ・パンサとして従えて、悪をこらしめ、世のあらゆる不正を正そうと、荒野を巡っている。
貧民街の応急救護所では今日も患者が、医者(音尾琢真)と看護師の治療を待っている。医者と牧師には、クリンクルの病に関して看護師のローズ(咲妃みゆ)にも言えない隠し事があるようだ。
なんとか『ドン・キホーテ』を再開しようと奔走してきた俳優たちが窮地に陥った時、劇場の売店の売り子(緒川たまき)に連れられた少年(須賀健太)が現れる。少年は「何かあった時は」とクリンクルから赤い玉を渡されていた。やがて、その玉が転がり出し、一行はそれを追いかけていく……。
ここまでパンフレットより引用。
【感想の前に。客席設定がすごい】
9月14日(日)初日観劇。初日チケットをとっての観劇は久しぶり。前評判なく劇に浸れる幸福感が堪らない。それと共に、「本当に3時間45分に納まるのか?」というある種の不安と、謎の期待感に胸を騒めかせながら、劇場へ。
劇場について一番初めに驚いたのは、客席の設定だ。
「最前列が2列目から」というのは知っていたが、1階最後列が19列目だと言うことは知らずに入場。私のチケットは19列。つまり、最後列だった。
しかし私の知っている限り、本来のKAATの最後列は25列目である。つまり、客席側に物凄い傾斜がつけられている。主観だが、AL1列目とほぼ同じ視線の高さだったと思われるので、ダンス公演時などに足元を見やすくするための客席設定(急勾配)がされていたのだと思う。
これによって、舞台床面に映し出されたプロジェクターの映像をしっかりと見ることができた。足元まで含めてKERA演出だよね~と、嬉しくなった。
【全体感想】
何が本当で、何が嘘か。
どこまでが虚構で、どこからが現実か。
果たして狂っているのはドン・キホーテ(クリンクル)か、周りの人々か、それとも劇を楽しむ我々か。
そもそもこれは、一体だれの夢なんだ?
面白かった。3時間45分があっという間に過ぎ去る。贅沢すぎる不条理ナンセンスコメディの渦に飲み込まれた。まさに必見の作品!!
3時間45分の旅の中で、すべてのストーリーや設定を取りこぼしなく着いていく……なんてことは勿論できず。爽やかなくらい置き去りになった。しかし、「分かったつもり」でこの芝居を観てしまうこと自体が、そもそも解釈の誤りなのでは?と自問自答は続く。されど、一方的でも客は語るのだ。
この思いを誰かに共有するために。
【重なり合う世界の層】
ストーリーは、クリンクルがドン・キホーテとして見ている夢の世界と、劇団員・売店の売り子・クリンクルの家族がいる現実世界が入り乱れながら進む。
世界観や時代が混在しているため、ひどく混乱するが、登場する物事が現実に即しているのかはそれほど重要ではないのだろう。きっと。たぶん。
世界の層が、複数にわたって重なりあっている。
➀クリンクルがドン・キホーテとして見ている夢の世界(及び、看護師ローズたちの現実世界) ②劇団員・売店の売り子・クリンクルの家族がいる現実世界 ③看護師のローズが見ている夢の世界 ④劇団主宰のアルビーがみている夢の世界
最低でもこれくらいはある気がしている。本当のところはどうなんだろうか。気になる。舞台装置の複数枚の重なった布も、これを暗示していたのではないだろうか。
【ポップでライトな死生観】
劇中、驚くほど軽快に人が死んでいく。久しぶりに、こんなにポップでライトな人が死ぬ場面をみた。「人の死」というものの描き方が軽快。人間は誰しもドラマティックに荘厳にに死んでいくかと問われれば、そうではない。身近にある簡単な死に際。最後にクリンクルが死の世界に旅立ったときも、かなりポップな演出がされている。劇中とおして、人の死が重苦しく描かれないのも、最後に繋げるためなのだろうか。
【素晴らしい舞台美術、贅沢な生演奏】
中央に配置された巨大な風車に、何枚も折り重なるように吊られた布。この中央の装置が回転することで舞台転換が行われたり、カーテンのように縛ったり広げたりすることで場が変わったり、幕そのものに映像が投影されたり。使い方が多彩。
前述とおり布の重なりは「複数の世界のレイヤード」を暗示しているのではないかと思った。ドン・キホーテが風車を巨人だと思うという原作リスペクトが感じられて、それも良い。
プロジェクションマッピングの投影も素晴らしかった。この演出を観るためだけに、もう一度観劇したいくらい。とくに、雨のシーンは足元で雨粒の跳ね返る水紋まで細かく表現されていて、その解像度と没入感たるや他の追随を許さず。
紗幕への投影では、ロンドン(勝手にロンドンだと捉えている)の街並みがよく表現されていた。セットなしであのリアル感は凄すぎる。圧倒的。人間の動き、舞台上にあるベンチなどの道具との調和もお見事。
音楽の生演奏がより一層素晴らしい観劇体験を増幅させた。KERA演出と言えば、生演奏と映像投影の素敵さだと思っている節があるので、今回も大変満足。演奏者も見えない場所で音を奏でるのではなく、常に見えている場所、時には舞台中央で演奏していることによって、まさしく演者のひとりとして、舞台転換の一部として、音楽劇としての核をなしていた。最高だった。
【ヘンリー・クリンクル(ドン・キホーテ)】
演:大倉孝二。
元々は金持ちの家の主人でありながら、家族と多額の借金を残して失踪。現在は小劇団で主演のドン・キホーテを務めるヘンリー・クリンクル。彼が劇中だけでなく、自分をドン・キホーテだと思い込み、旅に出ることで物語は始まる。
気の狂った老人なのに、どこか恍けた可愛らしさとエネルギーに溢れるドン・キホーテ。そして、現実世界の硬質でグレーがかった重苦しいクリンクル氏の対比が素晴らしい。
ドン・キホーテを演じる自分をドン・キホーテだと思い込んだ男:クリンクル、だと思い込んでいる男である大倉孝二を見た気分にもなった。大倉さんの演技がナンセンスコメディにハマりすぎている。抜群にうまい。好きだなぁ。
クリンクルに身体に詰まっていた宝石(に見えるガラス玉)は、一体なんの暗示だったのだろう。そして、少年に渡した赤い玉とは一体なんだったのだろう。
この辺りは、さらに考えて、自分なりの答えがでたら追記する予定だ。
【ローズ(ドルシネア姫)】
演:咲妃みゆ。
貧民街の応急救護所に勤めている看護師。病院に運び込まれたクリンクルを心配し、ときに自作のティアラをかぶってドン・キホーテ憧れのドルシネア姫を演じてくれる。父親と瓜二つのクリンクルに親愛の気持ちを抱いている。
咲妃さんの透明感と芯の強さを感じさせる芝居が素晴らしい。元宝塚の女優さんで、歌も抜群に上手い。そして、コメディセンスも光る。さらに美しさまで兼ね備えている。とても素敵な方だった。
ローズがクリンクル邸で、精神科医から「娼婦」と呼ばれていたのが気になった。現実世界で起きているであろう戦争について今作ではあまり掘り下げられていないが、言葉のあやではなく、ローズは現実世界では娼婦だったのかもしれない。ドン・キホーテから見えている救護所と、現実世界の救護所は、その存在にズレが生じている。
最後のシーンで、ローズがクリンクルに「あなたはドン・キホーテです」と夢の世界に引き戻したこともそうであれば納得できる。ローズもまた、夢をみていたのだ。
ローズはクリンクルからドルシネア姫や、救護所の女中として扱われることで救われていた。だから、現実世界にとどまっては居られないのではないのだろう。
【劇団主宰アルビー(サンチョ・パンサ)】
演:安井順平。
ドン・キホーテの主演に逃げられ、当てにしていた政府からの助成金は貰えず、ギャラのために借金を抱えることになり、隣人の放火によって自宅や荷物は消失し、自らの言葉によって恋人(ドリー)にも見放された男。
こうして羅列すると、本当に不運で可哀そうな男である。
とにかく安井さんは声がいい。とても聞き取りやすく、耳に入ってきやすい声質だと感じた。静けさの中に秘めたる熱量を感じさせる。劇団主宰であり、演出家であり、サンチョ・パンサをつとめるアルビーの負担たるや凄まじく、その気持ちは推して知るべし。苛立ちや焦り、逃げ出したい気持ちが侵食するように伝わってきて、共感。
赤い玉を追ってドン・キホーテの夢の世界(クリンクルが見ている世界)に入ってきてしまった劇団一行。階段の下の世界で自らをドン・キホーテと称するクリンクルと再会する。その後、降りてきたはずの階段が消えたのは、アルビーの力か。
恐らく、公演中止になったドン・キホーテの物語をこの世界で実現できてしまうこと、本当に自分をドン・キホーテと思い込んだ男の活劇を追いかけたいという欲求によって、アルビーの望む夢の層ができたのではないかと考察。
【牧師(サンチョ・パンサ)】
演:山西惇。
冒頭、ドン・キホーテと旅をしているサンチョ・パンサ。しかし、その正体は、クリンクルの病気を利用しようとしている悪徳牧師。
初期はドン・キホーテ(クリンクル)の身体に詰まった宝石を手に入れるために、サンチョ・パンサとして見えもしない夢の世界に付き従っていた。しかし、牧師はドン・キホーテの信念に少しずつ感化されて、変化していく。
最終的には、独自の騎士道のために毒の盛られた盃を飲み干そうとするドン・キホーテをかばって盃を飲み干し、死にゆく。ここ、本当にいい顔してるんだ。
山西さんのこの役、素晴らしいな。演技が良いのはもちろんだが、今作の中でもかなり上位に入る、分かりやすく素敵な役ではないだろうか。また、ポップに人が死んでいく本作において、死に関するシーンがドラマティックに彩られている唯一のキャラクターである点にも着目したい。
現実世界のアルビーから引き継いだサンチョ・パンサを、さらに夢の世界にやってきたアルビーに引き継いでいく。サンチョ・パンサが引き継がれていく設定は面白い。
その他にも山西さんが演じる、クリンクルの義理の息子(娘の夫)である精神科医、橋の番人など印象的だった。
【その他】
他にも語りたいこと、言いたいこと、書き表したいことが山のようにある。しかし、全て書くと感想ブログが巻物のようになってしまいそうだ。
一部抜粋でお送りする。
〇冒頭の農夫(土屋佑壱)と農夫の妻(犬山イヌコ)のシーンは秀逸。
片腕がもげている農夫と、もげた片腕をもつ妻。「農業機械で腕が切れた。病院へ連れて行ってくれ」と訴え苦しむ夫と、「腕から、夫がとれた」と言う妻。ドン・キホーテ、サンチョ、農夫の妻の頓珍漢なやり取りが面白い。
農夫がだんだんと衰弱して小さく小さくなり、脂汗をかいている。その傍らでのんきなやり取りが繰り広げられている。非現実的な光景で、ドン・キホーテの世界観に入り込めた。
〇クリンクルの代役として呼ばれたエドワード(土屋佑壱)のシーン
定まらない視点、必死で思い出そうとするが全く出てこないセリフたち、次第に自分が何をやらされているのか不安になってくる様子。それがコメディシーンとして成立している。
高齢の男性で、それなりのギャラで引き受けてくれる初心者ではない役者として呼ばれエドワード。とはいえ、若いころに一度芝居にでたきりで、専任の役者ではない。年齢故か、経験値故か、セリフが覚えられずプロンプターに頼りっぱなしになっている。それが、彼のなけなしのプライドを傷つけたのだろう。孫娘と去っていく姿が切なかった。この1シーンしか出てこないキャラクターだが、個人的にとても印象に残っている。
他にも女囚のシーン、鏡の騎士たち、飛行機のシーン、橋の番人との問答…と、思い出せる限りでも印象的すぎる場面が山のようである。
ああ、もう一度観たかった。